その国の文化をいかに学ぶか

「バイリンガル」という言葉があります。二ヶ国語を自在に操る存在として、インテリジェンスさの代名詞として用いられる言葉です。バイリンガルであるというだけで、「聡明な人」であるという印象を持たれます。

それでは、ただ二ヶ国語が話せればバイリンガルなのかというと、実はそうではないのです。本当の意味のバイリンガルとは、「両国の言葉」を自分のものとして扱い、「両国の文化」も自分の文化として飲み込めた人のことを指します。つまり、ただ言葉が使えるだけではバイリンガルとは呼べないというわけです。本当のバイリンガルは、「両国の架け橋」としての存在であるべきです。一方の国のことを自分のこととして感じることができて、かつもう一方の国のことも理屈ではなくて肌で理解することができる人のことです。そのような人を「本当のバイリンガル」といいます。

言葉はコミュニケーションの媒介でしかありません。その言葉を使うのは血の通った人間です。その人はその人が成長してきた環境のなかで自分を作り上げたのです。その人の「そのもの」には、その国の環境や文化、信条が込められているのです。ただ言葉を並べてその人に対して物事を伝えることは誰でもできるかもしれません。ですが、その人が抱える「文化」を理解した上で伝えなければ、その言葉はただ「伝えただけ」ということになります。その人のことを理解した上で、「このように捉えるだろう」ということを加味しないまま伝えた言葉は、その言葉が伝える「額面以上」のものがない言葉になるのです。そこには「共感」はありません。

人と人は理解しあって、共感しあって生きています。その共感が連帯感を生み、信頼感を生みます。「この人が言うことであれば信じられる」ということや、この人が言うなら仕方がないということが多々あるのです。その「人」が回しているのがビジネスであり、世の中はさまざまなビジネスによって成立しているのです。そのような背景を考えれば、相手に対して「理解」がなければ本当の意味でのコミュニケーションは成立しないものです。私たちはただ言葉を伝え合って生きているわけではないということです。その言葉には重みがあって、額面以上の意味があって、それを汲み取りながら、互いに理解しながら、さまざまなコミュニケーションをとっています。

それが他国の人になったとたん、額面だけの言葉で伝えるようになってしまうと、「コミュニケーション」はまったく味気ないものになります。その国の文化やその人の信条、私たちとは違う常識を理解しなければ、本来のコミュニケーションは実現できないのです。そのようなことを考えると、ただ言葉を学べばいいというわけにはいかないのがわかるでしょう。その国の人に言ってはいけないこと、その国の人が不快に思うこと、私たち日本人に対してどのような印象を持っているかなど、さまざまなことを加味しなければ信頼関係などは作れないということがわかるのではないでしょうか。

私たちはそれぞれ、国によって、そして地域によって違った常識があるのです。違った信条があるのです。それらは私たちの根幹を成立させる重要な要素であり、私たちは自然とそれに従って生きているのです。相手の「それ」を理解しないままコミュニケーションをとったところで、上辺だけの交流になるのは当たり前です。