語学力とはコミュニケーション能力

語学のために留学する人は多いものです。日本語以外の言語を学び、それを将来活かそうという人はとても多いものです。それが英語などのポピュラーな言語ではなく、どこでも学べないような言語であれば、「特殊スキル」として認知されることになるでしょう。

どのような言語を学ぶにしても、実際に身につけたとしても、それらの言語は「用いる」ことではじめて意味があります。用いなければ意味がないのです。それらの言語を用いることというのは、必然的に「誰かとコミュニケーションをとる」ということになります。誰かと会話している、文書のやり取りをしているということになるのです。

「お勉強」として何かの言葉を身につけるだけでは意味がないということです。「言葉」は使ってはじめて意味があります。「言葉」は誰かと意志の疎通ができてはじめて意味があるのです。ただ知識として知っているだけでは意味がありません。その言葉を用いて誰かと会話をする、コミュニケーションをとってみてはじめて、その言葉を覚えた意味が出てくるのです。そうでなければ、その言葉はただの「知識」です。ただ日本とは違う国の文章が読めるだけ、ただ違う国の言葉を聞いて理解できるだけになってしまいます。

その言葉を「使える人」に対し求められているのはそのようなことではありません。実際にその言葉を自分のスキルとしてビジネスに活かす際に求められることは、ビジネスマンとしての言葉、姿勢、日本人としての言葉、姿勢です。組織を代表して相手と接することに対する緊張感、責任感、対個人として信頼してもらえるような応対ができるかどうかという姿勢、言葉の重みなどです。それはただ「言葉」を覚えるだけでは身につくものではありません。ただ勉強するだけで身につくものではありません。「社会人」としての、「国際人」としての、自分の在り方は、勉強できるものではありません。

コミュニケーションに必要なのは「人間性」です。「人間性」は磨くものです。人間性を磨くためには、そもそも誰かとコミュニケーションをとる必要があります。相手から見た「自分」はどのようなものなのかということを、知る必要があります。自分がどのような生き方をしてきたのか、育ち方をしてきたのか、自分がどのような思想の持ち主なのか、相手の言う理不尽なことに対してどのように応対できるか、「仕事」に対する考え方、ビジネスに対する考え方、自分がどのようにして生きていけるのか、自分がどのようにして相手と会話できるのか、相手に不快な思いをさせずに交渉できるのか、そのようなことすべてを含めて「人間性」というのです。

「自分は外国語が話せる。だから他の人よりも優位に立てる」と、そのような考えでは人間性が疑われるのです。人にはそれぞれ役割があって、それぞれがその役割、その責任を果たしているのです。自分が外国語を使えて、それを活かした仕事に就くのも、ひとつの役割を得るというだけです。それがどれほど偉いことなのかということが問題なのではありません。「誇り」と「増長」は紙一重です。そのバランスの取り方が、「社会人」としてのバランスです。コミュニケーションにおいてもっとも重要なことでもあります。